1975年の松田組VS山口組の大阪抗争。
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最終更新日:2023/12/04
ヤクザ・マフィア
1975年7月26日に松田組、大日本正義団VS山口組の大阪抗争が勃発しました。
「松田組とは」
松田組は昭和20年(1945年)に松田雪重が大阪市西成区で結成した博徒組織でした。
昭和44年(1969年)に松田雪重が亡くなると、二代目は樫忠義が継承しました。
松田組は反山口組の関西二十日会に所属していた勢力300人ほどの組織でした。
他方、大阪抗争が始まる頃の山口組は1万人ほどの組員を抱えていました。
「抗争勃発」
松田組溝口組の賭場で山口組佐々木組徳元組幹部が賭場荒らしをしたので、松田組溝口組は山口組佐々木組徳元組幹部の賭場の出入りを禁止しました。
これに対して、昭和50年(1975年)7月26日、メンツがある山口組佐々木組徳元組は松田組溝口組組員2人と豊中の喫茶店ジュテームで話し合いをしました。
これを拉致されたと勘違いした松田組溝口組の組員たちは、喫茶店ジュテームに乗用車二台で乗り付けてピストルを乱射し、山口組佐々木組徳元組組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせました。
松田組溝口組は賭場が生命線なので、この賭場を守るために必死でした。
当初、山口組は報復には乗り気ではありませんでした。
抗争の非は山口組側にあった事、山口組の三次団体、四次団体の抗争である事、抗争をしても出費がかさみ経済的ではない事などがその理由でした。
したがって、山口組側の返しは、ジュテーム事件があった日の一か月後の昭和50年(1975年)8月23日に、大阪市にある松田組村田組村田岩三組長宅に銃弾を打ち込むのみでした。
山口組の報復に対して、松田組は即座に返しをしました。
村田組長宅に銃弾が撃ち込まれた日の翌日に、松田組村田組の過激派である大日本正義団幹部の平沢勇吉が山口組本部事務所に銃弾を撃ち込みました。
さすがに抗争に乗り気でなかった山口組も、本部事務所を銃撃されたことで、若頭の山本健一をはじめ主戦論が強くなっていきました。
松田組手束組が取り仕切っていた大阪府松原市の盆踊り会場で、山口組系の組員が拳銃で発砲して集まっていた市民を混乱に陥れました。
さらに、山口組佐々木組の組員が松田組瀬田会会長代行宅を襲撃して組員一人に怪我を負わせ、さらに山口組中西組組員の羽根恒美もパトカーの張り付け警備を押して、松田組樫忠義組長宅に銃弾を打ち込みました。
泥沼化した抗争の中で、複数の関係筋が和解を働きかけて一時は和解への道筋が見えましたが、昭和50年(1975年)9月3日、山口組側の和解話の窓口となっていた中西一男組長の中西組事務所に松田組村田組大日本正義団の組員が乗用車で突入し運転席から銃弾を撃ち込み、中にいた中西組組員一人を射殺しました。
警察庁は中西組組員射殺事件の翌々日に、第三次頂上作戦を開始し、山口組と松田組の抗争は小康状態となりました。
当時、山口組は若頭が山本健一で若頭補佐に菅谷政雄がいました。
菅谷政雄は昭和34年(1959年)に山口組入りした新参者ではありましたが、その勢力は14府県、60下部団体、1200人の構成員を抱えた一大勢力でした。
若頭の山本健一にとってみれば、自分よりも勢力を持ちながら、自分よりも役職が下である菅谷政雄は、恐怖であり、嫉妬の対象でもありました。
この菅谷政雄が勝手に松田組と和解交渉をすすめたとして、菅谷政雄は昭和50年(1975年)10月の定例幹部会で謹慎処分となり、若頭補佐の地位は凍結となりました。
この謹慎は昭和51年(1976年)4月に解かれましたが、菅谷政雄は若頭補佐から筆頭若衆に降格となりました。
この後、菅谷政雄は昭和52年(1977年)1月に起こした三国事件によって山口組を絶縁となりました。
昭和51年(1976年)10月3日、大阪日本橋で松田組村田組大日本正義団の吉田芳弘会長が山口組佐々木組片岡組組員の與則和らによって射殺されました。
山口組から当事者であることから決着をつけるように圧力をかけられていた佐々木組が、巨額の費用と数か月にわたる準備をして決行した暗殺でした。
この吉田芳弘会長の運転手をしていたのが鳴海清でした。
会長を射殺された大日本正義団の組員は吉田会長の仇討ちを誓い、山口組佐々木組の佐々木道雄組長宅の近くにアジトを構えて佐々木道雄組長の暗殺の機会を待ちました。
しかしこのアジトは兵庫県警に見つかり16人もの組員が逮捕されてしまいました。
襲撃計画は未遂に終わりました。
昭和53年(1978年)7月11日、山口組三代目組長の田岡一雄は京都太秦の東映撮影所の火事見舞いに訪れて、その帰りに三条川端東のナイトクラブ「ベラミ」に立ち寄りました。
警護役は細田利明、仲田喜志登、羽根悪美でした。
田岡一雄はベラミで松田組村田組大日本正義団幹部の鳴海清に首を撃たれて、全治三週間の怪我を負いました。
あと数センチずれていたら即死だったと言われています。
山口組はトップが襲撃されたことに激怒して、警察よりも先に鳴海清を見つけ出そうと必死に行方を追いました。
他方、鳴海清は昭和53年(1978年)8月11日、新大阪新聞社に田岡一雄を挑発する「挑戦状」を送りつけました。
この挑戦状により鳴海清が西成にいることが判明しました。
警察と山口組が西成でローラー作戦を行いましたが、鳴海清を見つけることはできませんでした。
鳴海清はこの頃、反山口組の関西二十日会に加盟する神戸市湊町の忠成会の支援で加古川市や三木市を点々としていました。
鳴海清の挑戦状が新聞に載って以後、山口組の報復の火蓋が切って落とされました。
山口組は松田組組長の樫忠義や松田組村田組大日本正義団会長の吉田芳幸に狙いを定めましたが、樫は自宅にこもって一歩も出ず、吉田は逃げ回っていて消息がつかめませんでした。
昭和53年(1978年)8月17日、大阪市にある公衆浴場で松田組村田組の潮見義男若頭補佐が射殺されました。
この事件の首謀者として、山口組山健組若頭補佐の盛力健児が逮捕されました。
昭和53年(1978年)9月2日、和歌山市で合法企業を多数営み松田組随一の金持ち組織であった松田組西口組の西口善夫組長宅に、山口組山健組健竜会の組員が侵入し拳銃を乱射しました。
西口組長はゴルフで外に出ていましたが、警戒中であった西口組の組員2人が射殺されました。
この事件の首謀者として、山口組山健組健竜会若頭補佐の井上邦雄が逮捕されました。
昭和53年(1978年)9月17日、兵庫県六甲山中で鳴海清の死体が発見されました。
腐乱が激しく、背中の刺青から鳴海清であると判明しました。
昭和53年(1978年)10月7日、関西二十日会に連なる団体の幹部5人が、兵庫県警に出頭しました。
兵庫県警は犯人隠匿容疑で5人を逮捕しました。
彼らは鳴海清の殺害については否認していましたが、約一か月後にそのうちの2人が幹部の命令で殺害したと自供しました。
起訴状によると彼らが鳴海清を殺害した理由は、鳴海清が無断で西成に戻ろうとするなど鳴海清を持て余していた点と、鳴海清を同団体が組織ぐるみで隠匿していた事実が発覚することを恐れたからとされました。
最高裁は、「自白調書が信用しがたい」として大阪高裁に審議のやり直しを命じました。
大阪高裁で同団体幹部らは無実が確定し冤罪であったことが明らかとなりました。
鳴海清を誰が殺害したのかは、いまだ不明です。
鳴海清の死後も山口組の攻撃は続きました。
昭和53年(1978年)9月24日、山口組宅見組の組員が松田組福田組杉田組組長の杉田寛一を射殺しました。
松田組の樫忠義組長は自宅にこもっていたので山口組は全く手が出せない状態でした。
そこで山口組宅見組は樫忠義組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てました。
この計画は実験段階で警察に露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕されました。
松田組村田組大日本正義団会長の吉田芳幸は、ベラミ事件後80日間の逃走生活を送りましたが、山口組の報復におびえる生活に疲れ果てて、大阪府警に連絡を入れて収監されました。
吉田芳幸は昭和52年(1977年)に佐々木道雄暗殺計画で銃刀法違反に問われて保釈の身でしたが、無断で姿をくらましたために、大阪地裁が収監命令を出していました。
昭和53年(1978年)10月4日、山口組山健組健心会の江口健治ら幹部6人は大阪市内のスナックで松田組村田組若頭の木村誠治を銃撃しました。
昭和53年(1978年)10月、尼崎市で山口組藤原会と玉地組による混成チームが松田組瀬田組石井組組長を襲撃しました。
石井組長は事務所に逃げましたが、逃げ遅れた組員1人が射殺されました。
昭和53年(1978年)10月24日、山口組溝橋組勝野組副組長の松崎喜代美が大阪市西成区のアパートで大日本正義団舎弟の柴田勝を射殺しました。
大阪戦争が終わりかけていた時期、勝野組組長の勝野重信が手柄を上げようと焦っていた所、副組長の松崎が自ら名乗り出てヒットマン役を引き受けました。
射殺された柴田とヒットマンの松崎は博打仲間でした。
昭和53年(1978年)11月1日、山口組はマスコミを前に若頭の山本健一、本部長の小田秀臣、若頭補佐の山本広が大阪戦争の終結宣言を読み上げました。
(参考:抗争秘史・戦後ヤクザ抗争史)
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